ゲゲゲの鬼太郎の生みの親・水木しげるの名言

マインド

ビジネスを成功した水木しげるの名言を伝えていきたいと思います。

マインドセットに役に立つ水木しげるの名言25選

  • 私は得な性分で、つらかったことは忘れ、楽しかったことだけを覚えている。
  • アホなベビイ(子供)という評判は気にならんかったのです。
    私は世の中の法律とは別の法律にのっとって生きてたわけです。
  • 幸福を手に入れるのは実に大変だが、しかし大切なのはその人の生き方次第というわけです。
  • 熱中する能力、いわば「好き」の力ほど、人生を生きていくうえで大事なものはないような気がする。
  • 他人の思惑などに振り回されず、自分のやりたいように生きる。
    外の世界にいちいち対応せず、自分の世界の流儀でやればいい。
  • 私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。
    もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう。
    命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある。
  • 私の職業である漫画家は売れなければ終わりの冷酷な世界です。
    なんとか売れるようになった後もヒット作を捻り出し、マネーを獲得しないと食っていけない。
    普通の心臓ではもちません、よほど好きでないと務まりませんよ、ホントに。
  • 同業者の家に行くと本なんか一冊もない人たちが少なくありませんでした。
    面白おかしく、楽しみながら好きな漫画を描いて、楽して暮らしたいという人たちです。
    そういう人たちは、ほとんどが消えてしまいました。
    たぶん、「好き」のパワーが弱かったのでしょう。
  • ある人が「水木さんは奇人変人のタイカ(大家)だ」と言ってくれたが、実際、私が長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が多いことがわかった。
  • 不幸な顔をした人たちは「成功しなかったら、人生はおしまい」と
    決め込んでいるのかもしれないね。
    成功しなくてもいいんです。
    全身全霊で打込めることを探しなさい。
  • 私が幸福だと言われるのは長生きして、勲章をもらって、エラクなったからではありません。
    好きな道で60年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。
    ノーベル賞をもらうよりそのことの方が幸せと言えるでしょう。
  • 栄光や評価など求めず、大好きなことに熱中する。
    それ自体が喜びであり、幸せなんです。
    私の場合、それは漫画を描くことだった。
    その行為が金銭的に報われるほうがいいに決まっているが、結果の良し悪しには運が付きまとう。
  • 強いだけ、威張るだけではガキ大将の座は安泰ではない。
    ある程度みんなの自由を認め、楽しく愉快に遊ばせる知恵や工夫がないと、
    人心を掌握できない。
    それができると、まとまりができて、合戦などのときに強みを発揮する。
  • 私が漫画で食えるようになったのは40歳を超えてから。
    ベビイ(子供)のころから憧れていた絵で食う暮らしにたどり着き、命の次に大切な眠りすら削って、うんと頭を絞って、漫画に噛り付いてきた。
  • ベビイ(子供)のころは誰もが好きなことに没頭して生きていたはずだ。
    人間は好きなこと、すなわち「しないではいられないこと」をするために生まれてきたんです。
    初心にかえって、仕事に改めて喜びを見出すのもいいし、ずっとやりたかったのに我慢していた趣味をやってみるのもいい。
  • 悲壮な顔をした人たちは成功や栄誉や勝ち負けにこだわってばかりで、仕事でも趣味でも恋愛でも、熱中することを忘れてしまったんじゃないですか!
    好きなことに没頭する、そのこと自体が幸せなはずなのに……。
    もちろん、成功することに越したことはないが、成功できるかどうかは時の運です。
  • 筋を考えるのが漫画家の生命線です。
    私ははっきり言ってその努力は惜しみませんでした。
    いまでも続けている。
    なにしろ、漫画が好きだからね。
    私が売れなかった時代でも、原稿料の半分は漫画の筋を考えるのに役立ちそうな本とか、妖怪の作画のための資料とかを買い込むのに使っていました。
    食べ物を買う金も満足に残らなかったが、それだけ「好き」の力が強かったのです。
  • 若いときは怠けては駄目です!
    でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。
    なんとか食えるようになってから、連載の本数を減らして、世界中の楽園や妖怪の棲み処(すみか)を訪ねる世界妖怪紀行を始めました。
    いままでに78回も世界中を旅していて、これが私の最大の怠け術です。
    ときどき怠けることは生きていくうえで大切なことです。
    そして、仕事でも役立つのです。
  • 好きなことにのめり込み、才能が開花してどんどん伸びたとする。
    でも、食べていくのは大変だ、なかなか儲かるもんじゃない。
    努力に見合うマネーはなかなか得られないもんです。
    だからといって、絶望したり、悲観したり、愚痴をこぼしてはいけない。
    ただただ、努力するのです。
    なにしろ、好きな道なんだから。
  • 私は「奇人は貴人」だと考えているから漫画にも大勢の奇人変人を描いています。
    こうした人たちには、好奇心の塊のような我が道を狂信的なまでに追求している人が多い。
    つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで我がままに自分の楽しみを追い求めているのです。
    だから幸せなのです。
    さあ、あなたも奇人変人になりなさい。
  • 「楽をして、ぐうたらに生きる」が私の座右の銘で60歳を超えてから何度も南洋の村に永住しようと本気で考えた。
    だがその都度、妻子の猛反対にあって断念した。
    世俗の仕事に追いまくられ「人生思い通りには運ばない」とボヤいていたが、このごろは生涯現役も悪くはないのかなあという心境になってきた。
    どうやら、勤勉な妖怪が私に乗り移っているらしく、死ぬまで忙しそうだ。
  • 我を忘れて没頭できること、本気で夢中になれることならどんなにアホなことでもいい。
    周囲の目や批判を気にして「世間のルール」に合わせようなどとしてはいけない。
    世間の常識から外れたことをすると、つらい目に遭ったり、恥ずかしい思いをすることもあるだろう。
    でも、それは甘んじて受ける、忍耐もする、何しろ好きなことをやっているんだから。
    それが楽しければ、世間との食い違いが起きても慌てず騒がず、ひたすら自分の道を進めていけばいい、ばく進あるのみです。
  • 打込めることを真剣に探そうとすると真面目な人たちには案外それが見つからないものです。
    見つけるにはコツがある、簡単なことです。
    好奇心を大事にすればいい。
    好奇心が湧き起こったら、とことん熱中してみる。
    これが近道であります。
    そうすると、「しないではいられないこと」が姿を現してくる。
    それでも、姿を現さないならベビイ(子供)のころを思い出してみなさい。
    無我夢中で遊びや趣味に没頭したころを思い浮かべてみるのです。
  • まだ現役の漫画家である。
    バリバリとまではいかないが、ぼちぼちと仕事をしている。
    創作意欲とか、何を描きたいとか、そういう次元を超越してしまって、無意識のうちに描いている気がする。
    妖怪か背後霊のようなものが私にとりついて、描け描けと背中を押しているのかもしれないと思うほどだ。
    70歳をすぎたら悠悠自適でのんびり暮らす予定だったのに、いまでも結構忙しいのは、やはり憑き物が憑いているとしか思えない。
    でも、それは苦痛ではなく、幸いなことに楽しく、
    充実感があって愉快なのである。
  • 我が人生は半分寝ぼけたようなことの繰り返しで、パッとした出来事や思い出はあまりない。
    うまい話や儲け話とも縁が薄かった。
    それでも、自分がつくったルールに忠実にマイペースで生きてきた。
    でこぼこ道や回り道が多かったものの、画業という好きな道を半世紀以上にわたってずっと歩いてくることができた。
    その意味ではとても幸せな人生なのかもしれない。

太平洋戦争で左腕を失った漫画家の下積み時代

子供の頃は紙と鉛筆があれば、夢中になるほど絵を描くのが好きな少年でした。

絵を描くのが飽きない水木は美術関連の中学校に進学するつもりでしたが、図工以外の成績が良くなかったため進学をあきらめて親戚の紹介で大阪に引っ越しして印刷会社で働き始めました。

21歳の頃、太平洋戦争の召集令状を発布され、戦場に向かうことになりました。

戦争で負傷してしまった左腕を治療のために切り落とすことになりました。

終戦後、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に入学しましたが、経済的に厳しかったため卒業できないまま中退しました。

中退後、生活のためにいくつかの職に転職しながら稼ぎました。

28歳の頃、神戸にある「水木荘」というアパートの大家になり、アパート経営を始めました。

最初はアパート経営をしばらくやっていましたが、紙芝居の仕事をしている住人が引っ越ししてきたきっかけで副業として紙芝居を始めました。

しかし、ストーリーを作るスキルがなかったため数年は売れませんでした。

漫画をよく読む人ならわかると思いますが、絵を描くのが上手くても物語を考えるのが下手だったら楽しめませんよね?

35歳になる頃までは紙芝居でストーリーを作るノウハウを積み重ねながら作品を作りました。

36歳の頃、テレビが流行した影響で衰退した紙芝居業界から漫画家に転職しました。

紙芝居で鍛えたストーリー構成スキルを活かしてSF関連の作品をデビューしましたが、暗い雰囲気の作風のせいで評判が良くなかったそうです。

作者名を変えてしまうほど不評判でした。

SFとは宇宙、怪獣、海底など科学的で未知の世界を想像したフィクションです。

38歳の頃、暗い雰囲気の作風に合った奇怪系、そしてゲゲゲの鬼太郎の原点である「墓場鬼太郎」を描きました。

最初は全く売れなかったですが、一部の読者の手紙から「面白かったから続きを描いてくれ!」と再開を望まれました。

そのきっかけで妖怪などオカルト系の得意分野以外、得意ではない宇宙系の分野を描かないと決めました。

「河童の三平」「悪魔くん」など、妖怪漫画を掲載開始したきっかけで漫画家として波に乗り始めました。

46歳の頃、漫画家の波を乗った水木は、原点である妖怪漫画の「墓場の鬼太郎」を「ゲゲゲの鬼太郎」に改名して再開しました。

まとめ動画


以上になりますが、絵を描く仕事が大成功するまでの下積みがすごく長かったのに「絵を描くのが好き」だから続けられる精神力がすごいなと思いました。

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