インスタントラーメンを開発した日清食品の創業者・安藤百福の名言

ビジネスを成功した安藤百福の名言を伝えていきたいと思います。

マインドセットに役に立つ安藤百福の名言25選

  • 日清は独創的な創造開発に挑む会社である
  • 「味はバランスだよ」と常に言っています
  • ぶち壊してしまえば、必ずあとから何かの芽が出る
  • 事業を始めるときは成功を語るな。失敗から考えろ
  • 人間、どうにもならんような羽目に陥った時は、自分でも想像できない力が出る
  • 人の欲望はキリがない、不平不満が募って己を不幸にするばかりだ。
  • 苦言を聞き分けられる人間は成長するが、甘える人間はその段階で成長が止まる。
  • 社員に今の社長より優れている者がおれば、僕は他の人を(社長に)採用するかもしれない
  • 金さえあれば何をしてもいいという訳ではない。人間の心まで金では買えない。
  • 事業はすべて、進むより退く方が難しい。撤退時期を逸したら、あとは泥沼でもがくしかない
  • 無駄なお金は一円たりとも使ってはいけない。生きたお金なら惜しみなく使いなさい
  • 事業を複雑にするな。新しい事業ほどシンプルな構造でなければならない
  • 企業に永遠はなく、いつ寿命が尽きるかわからない。だから仕事は健康なうちに次の世代に渡していくべきである
  • 企業は自分に合った身なりをするのが一番美しい。見栄を張って似合わないタキシードなどを身につけようとするのが間違いのもととなる。
  • ラーメンに最初に興味を持ったのは、戦後間もなく大阪・梅田の焼け野原で屋台のラーメンに行列を作る人の姿を見た時です。
  • 消費者の一食一食は生活の中でのかけがえのない一食である。一日何百万食も作るのだから、中に二、三食悪いものがあっても仕方がないという言い訳は絶対に許されない
  • 中途半端なことは言ってはならない。自分で自信が持てないことに、誰が耳を傾け、協力してくれるだろうか
  • 集中するとはある意味では捨てることです。「選択」するということはいくつかの選択肢の中から一つを選ぶことです。他のものは捨てねばなりません。
  • 起業家にとって情熱も必要だけど意外に大事なのは計数感覚です。事業は全て計算です。
    起業家は数字がしっかり頭の中に入っていなくてはいけません。
  • 情報には鮮度がある。すべての人が良いという意見は信用できない。情報は自分の目と耳で集めろ。机の上でいくら思案しても、優れた発想は生まれない。
  • 上に立つ者の姿勢が良ければ下の者も自然にその姿勢を見習うだろう。厳しいだけではいけない。これからは社員の心をいやす経営も大事である
  • 人生いつもうまくいくとは限らない。もしああ、ムダな歳月を過ごしてしまった。取り返しのつかない事をしたと思ったら、本当に取り返しのつかないことをしてしまったことになる
  • 社長とは権力ではない、責任の所在を示している。経営者の落とし穴は賛辞の中にある。偉くなればなるほど身の回りに甘い言葉が集まり、英雄的気分にひたっていると必ずつまずく。苦言に耳を貸さない経営者は必ず会社に危機を招く
  • 私は医者や弁護士であっても専門家の言うことを鵜呑みにはしない。ときには素人の発想が正しいこともある。素人だからこそ常識を超えた発想ができる。人間はなまじ知識があるから本質がわからなくなる
  • 事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない潜在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう

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カップメンを開発するまでいくつかの経営をした経営者の人生

日清食品を起業する前は実業家として活躍していました。

1932年、動物の体毛、植物など素材からヒモを作る繊維の東洋莫大小(とうようメリヤス)

1941~1943年?幻灯機(スライド映写機)、バラック住宅建築、軍用機エンジンの部品など製造関連の工場

・・・など、いろんな経営をしていました。

しかし、太平洋戦争中、台湾出身という理由で横流し疑惑に抱かれて45日間拷問を受けました。

自白させるためにエスカレートしていく拷問に対して留置場で知り合った人に助けを求めて解放することができました。

拷問を受けながら留置場で生活してきた影響で内臓疾患にかかってしまい、手術を受けました。

1946年、太平洋戦争の終戦から数ヶ月後、大阪府泉大津市に住み、大阪市にある心斎橋、御堂筋、大阪駅周辺など、土地を手に入れました。

戦争で荒野になってしまった現状を見て、満足な食事ができないと生活が成り立たないと思って食事のベンチャービジネスを始めました。

2年間、中交総社(後、日清食品)と民栄養化学研究所を設立。

そして、中華交通学院のオーナーとなり、食品事業を広げていきました。

1948年、連合国軍最高司令官総司令部に脱税してるな!と疑われました。

雇った地元の若者に支給する奨学金の源泉徴収を納税しなかったせいで違反者として睨まれたそうです。

重労働の刑として巣鴨拘置所に収監されました。

収監された安藤はみせしめされたと思い、法学者の黒田覚の協力で弁護士を集めて裁判を起こしました。

訴えられた連合国軍最高司令官総司令部は、訴えをやめたら釈放してやるよ。と条件を持ち出しました。

その条件に納得できない安藤は、裁くまで裁判を続けようと考えました。

しかし、家族を守るために渋々条件を飲みました。

釈放後、建てたばかりの信用組合の理事長として仕事に就きました。

しかし、破綻してしまい、無一文生活に成り下がってしまいました。

そのきっかけで銀行に対してもう信用できない!と誓って1円も借金をせず、インスタントラーメンの開発を取り組みました。

まとめ動画


以上になりますが、失っても負けない経営者の生い立ちがカーネルサンダースに少し似てるなと思いました。

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